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  • 2017/06/26

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    古い約束に出てくる”主”とは何かについて

    みなさん、こんにちは。

    今日は久しぶりに朝スタバに来たのですが、
    取り立てて久しぶりの来訪者を特別扱いしてくれないのに虚しさの風が吹くのでした( ̄▽ ̄)
    別に何も平気ですけど、
    いつもと何も変わらない、何も起こらない、私だけの日常の一コマです(>_<) それでも私のスターバックスは特別な時間を提供してくれるのでいつも愛しい。 今日は聖書のお話でもしようかなと思います。 ※長いです\(◎o◎)/! そういえばまだしてなかったな、と( ̄▽ ̄) 1カ月くらいかけて旧約聖書の小説版を読んでいました。 私が読んでいたのはウォルター・ワンゲリンさんのもので 初めて聖書の物語に触れて思ったのは”長い・・・”でした(>_<) 実際の原本はいくつもの章が”~記”としてもっと長いものとしてあるようです\(◎o◎)/! それをワンゲリンさんは一連のお話としてつなげてくれたので私でもなんとか最後まで読み切ることができました( ̄▽ ̄) 楽しいとか、ためになるとかというよりそういうものなのかという気持ちで読んでいました。 旧約聖書とは古い約束のお話なのでイエス・キリストも聖母マリアも出てきません。 出てくるのはノアの子孫とされるアブラハムとその一族イスラエルの末裔であり、 話の軸として他の神の崇拝を決して認めない ヘブライであり、ユダヤであり、イスラエルの神、”主”である。 その神である”主”は決して姿を見せることはなく、 イスラエルの民の中から各時代に1人だけ預言者を立ててその意向を伝える。 つまり預言者とは予言ではなく、 ”主”からの意向を預かることのできるメッセンジャーのことだった。 その中で有名なのがモーセだったのです。 成り行きでエジプトの奴隷として扱われていたイスラエルの民に エジプトからの独立を促し、実現したのがモーセであり、モーセはエジプト全土に10の災いを予言し、イスラエルの民の”出エジプト”を認めさせた。 しかし、やっぱりそれが許せなかった当時のファラオはモーセとイスラエルの移民たちに軍隊を向けるもあの有名なモーセの海を割る秘術によってエジプト兵は退けられる。 その後モーセはシナイ山にて”主”との約束事の刻まれた”十戒”を授けられ、 そのとき初めて”主”は神の名としてヤハウェと名乗ったとされている。 その後も預言者の継承とともに十戒も契約の箱の中に納めれられる形で イスラエルの民は幾度の困難も”主”の導きによって自立の道を切り開いていく。 ※十戒が入っているとされる契約の箱のことをアークと呼んでいる。  旧約聖書の後半にはもうすでに失われている。 その詳細についてが旧約聖書には記されている。 もちろんその詳細については掻い摘んでも語らないので安心してください\(◎o◎)/! ここではまず神を名乗る”主”について個人的解釈を語ろうと思います。 ”主”には間違いなく人間的傾向があり、知的生物であり、地球人よりも多くの法則を理解し、扱う手立てを持った存在です。 とりあえず地球外生物というくくりであることには間違いないと思います。 人が思う神ではないことは確かで、そう思わせる必要があったのだと思う。 ただどんな”人”なのか、どんなレベルの知的生物なのかはここでは伏せたいと思う。 とりあえず”主”からの施し、天変地異は空からが多い。 とりあえず”主”は自分のみを信じることをイスラエル人に強制する。 ”主”は自身への信仰をないがしろにしようとする集団意識を問題視します。 そして、自分をないがしろにしたイスラエルの民を愛するがあまり滅ぼすことも厭いません。 まるで”主”の導きなしでは生存不可能なほどの逆境を演出することすらします。 その演出後に改心したイスラエルにのみ神秘的現象で救いを施し確かな信仰を根付かせる。 ”主”とは絶対神であると同時に愛と憎しみを共有する私たちと同じ知的意識と感情と超越的な力を駆使する人間的存在なのだと思う。 我々人間の意識は同属を愛し、大切にする傾向がある。 ※生物とくくった方がいいかもしれない。 何が好きで、何が嫌いか・・・ その選び方のことを葛藤と呼び、その波幅と傾向のことを波長と呼ぶ。 その波長の度合いのことを相性と呼ぶ。 人間は昆虫に相談はしないし、おせっかいをしたりしない、 まして恋愛をしたり、結婚を申し込んだりもしない。 現在のところ彼らとは波長を異にした違う種族だからだ。 ※しかし、もしも昆虫に我々と同じレベルの意識と言語、知能と波長及び身体機能を持っているとするならば今とは違った関係と相性が生じると思う。 人間と昆虫の波長関係はかなり大げさなたとえ話だけど、 その波長の違いは人間同士の種族間にも機微として存在している。 意識の波長の違い、相性の良し悪しの利害関係から好きと嫌いの比較感情は生まれる。 戦争や争いがなくならない根本的な理由は”好き”という感情があるから 好き嫌い感情の存在理由はその性格の決定が運命を決めていくから 運命の存在理由は見えない秩序を回転させる原動力として必要だから ”主”は個を通じて集団意識の変容を試みていた。 聖書の”主”はイスラエルの民を自分の血縁であるかのような愛着をもって手を差し伸べ、 場合によっては血を流す犠牲を駆使して教訓とし、信心を育て、生存させている。 そう、、まるで古代ヘブライ人の親として、家族として、惜しみない愛を注いでいる。 たぶん”主”とはヘブライ人であり、ヘブライ人の祖先であるノアやアダムは ”主”の由来に何らかの関係を持っている。 あるいは”主”の方が彼らの生存に必要な何らかの責任を負っていた。 その関係が私にはまるで親族関係のように思えていたのでした。 ”主”は”主”で彼らなりの運命という使命(※仕事ともいう)を背負っていて、 古代ヘブライ人の運命のあり方が”主”の立場に何らかの関係があったのだと思う。 ”主”は人間すべてを見守っていたのではなく、 あくまでイスラエルという自分自身と関係のある一族の行く末を贔屓し、見守っていた。 神係には担当でもあるのかな? また信じることにおいて、 ”主”はあくまで偶像による幻想ではなく、 ”姿を見せられない”が確かに存在する自分自身のことを無心に信じることを求めた。 人の運命には目には見えない超越的な意義があることを伝えたかった。 それが”主”の意向であり、聖書を残した者の意思なのだと私は思いました。 その伝承者、預言者としてもっとも有名で今もその名を残しているのがイエス・キリストだ。 聖書の物語は新しい約束として記された”新約聖書”へと続いていく。 ”主”とは何か、 聖書とはたぶんそのことを共有するために存在するバイブルなのですね。 聖書に限らず信じられる何かがあると人は強くなるのにもまた 重要な秘密が隠されていることを多くの人は知らない。 人間のそういう感情意識の変容はカオスであり、複雑系なのだ( ̄▽ ̄) そう、”主”とはカオスの顕現であり、カオスからの預言者の1人なのです。 まったく聖書の著者とはいったいどんなことを見て、育ってきたのでしょうね\(◎o◎)/! 次回は新約聖書を読み終えたときですね( ̄▽ ̄) たぶんキリストとは何かを語ります\(◎o◎)/! いつになるかはわかりませんが・・・ それでは今週もよろしくお願いします。